映画感想『マッドマックス 怒りのデスロード』
本編を見ずに予告の映像見たときに「北斗の拳じゃん…」って思いました。
ハリウッド版ヒャッハー系世紀末。(肩パットつけたモヒカンがバイク乗ってヒャッハー言って走り回っている核戦争で荒廃した世紀末のことを、ヒャッハー系世紀末と勝手に呼称しています)
暴力! モヒカン! ヒャッハー! 考えるな感じろ!な世界なのかという先入観があったのですが、根本にあるのは王道ストレートなストーリーでした。
上手く説明できないけど神話っぽさを感じました。ジョーの妻たちが水浴びしているところを目撃したシーンなど特に。
主人公というものは「何かが不足している。欠けている」存在なのだということが聴いたことがあって、最近ストーリーものを見るときは、コイツは何を不足しているんだろうな…と考えながら見てしまっています。
(私の語っているストーリーの構造みたいなものは不勉強なので、あんまり信じないでね。暖かい目で見てください)
今回、主人公のマックスは、なんかもう…この人、全部無くしてない…?
途中途中挟まるフラッシュバックシーンから、ストーリーの始まる前から大切な命が守れなかったのかな…ってわかるし、ストーリーの冒頭ではジョーの部下に捕まり車を奪われニュークスの輸血袋になります。名前無くなりました。
途中、ヒュリオサから名前を尋ねられた時も「好きに呼べばいい」と答えていて、他人に何と言われようが本人もどうでもいいと思っている様子。生存本能に従っているだけのマシーンみたいでした。
他のキャラクターたちも、フュリオサは幼いころ故郷から連れ去らわれて故郷をなくしていますし、ジョーの妻たちも「子供を産む道具」扱い、ニュークスも短命でジョーに信奉していて「英雄」になりたがっているけど、ジョーにとっては都合のいい下っ端扱い。
マックス一行っていうのは皆、人間扱いされていない人たちだと思いました。
そんな一行が「希望」に向かって、前半は「希望」は緑の土地を目指す。後半は砦に戻ってくる…という「行って戻ってくる」という王道の展開を通じて、自身の尊厳を回復させるストーリーだと、私は思いました。
最初は輸血袋扱いだったマックスが、最後は自分からフュリオサに自分の血を輸血しながら名前を名乗っています。なんか「マックス」という人間になったんだなあ…と感じてしまいました。
戦わなければ生き残れないという暴力が支配する世界なんですけど、強い人間ばかりじゃないことはジョーの妻たちを見ればわかります。
囲われていたから戦えなくて、でも覚悟が決まっている人もいれば、戦いの中で成長した人、そしてジョーの元に戻りたくなった人もいました。
皆が皆強いわけじゃない、強くなれるわけじゃない…というシーンは見れて良かったです…。
あとタンカーに潜りこんだものの自分の失敗に落ち込むニュークスと、彼を慰める女性のシーンもなんだか好きでした。
敵だから放り出すのが一番なのに、泣いているから慰めて心を通わせているんですよ…。なんだか母性を感じましたし、一見甘いと見える行動ですが、そういう優しさを別に捨てなくてもいいんだ…って思っちゃったんですよね。そしてニュークスは一向の助けになるわけですし。結果的にもプラスになってます。
なんか段々ニュークスが好きになりまして、死んじゃったときは普通に悲しかった。
最初「白ハゲ」「なんだあのスケキヨ軍団」とか思ってごめんね…。
マッドマックス本編に関してはヒャッハー系世紀末でしたが、土台がしっかりした王道ストーリーでびっくりしました。頭空っぽで見ろっていう映画かな~って思ってたんで。しっかりした王道ストーリーが土台にあり、ヒャッハー系世紀末がそれを覆っているというイメージです。
でもそのヒャッハー系世紀末という要素は、やっぱり頭空っぽで見ろ…かもしれない…。
ここから先は余談。
『マッドマックス 怒りのデスロード』を見る前に、父に「ハリウッド版北斗の拳」と言ったら「北斗の拳がオマージュしてるんだよ」と説明されました。
マジかよ…とwiki見たら、書いてありました。ホントに。
それでその北斗の拳をオマージュしている作品と言えば、ボボボーボ・ボーボボです。です!っていっていいのかわからないけども。
ということは、マッドマックス→北斗の拳→ボーボボと、つながっているわけで…。
ボーボボの1話を今見たら、野菜連合に磔にされて登場してきたボーボボなんてめっちゃマッドマックスだし…。なんかびっくり…。
[第1話]ボボボーボ・ボーボボ - 澤井啓夫 | 少年ジャンプ+
こんな過去から未来へ、オマージュがぐるっと回って時を超えてつながるってことある? しかもつながった点がボーボボ。